3月, 2012年
3月3日、ついに収穫開始!
わかめの収穫と共同作業を行いました。
3月3日、順調に育ったわかめを収穫しました。
この日は「遠野まごころネット」の皆様が応援に駆けつけてくれました。
(下の写真で黄色いチョッキのユニフォームを付けている方々です)
約1.5トンの水揚げがあり、組合員、まごころネットの方々共同で、わかめの根や茎の部分を切り分ける選別作業を行いました。
これから次第に本格的な水揚げがはじまります。
わかめサポーターとして、温かいご支援を頂いている皆様、わかめをお届けするまでもう少しお待ち下さい。
毎日本当に沢山の方からご支援、励ましを頂いています。
加工施設の再建、本格稼働に向けてまだまだ頑張る必要があります。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。
【ご協力いただいた皆さま】
■遠野まごころネット
東日本大震災で被災した岩手県沿岸部の被災者の方々を支援するべく、遠野市民を中心として結成されたボランティア集団です。
>>遠野まごころネットホームページ
■武者幟半纏(むしゃのぼりはんてん)を作って頂いた「夢布人(ゆめふじん)」
上の写真の下段左下、みんなが着ている半纏は、佐賀県久保旗店さんから24枚の武者幟の提供を得て、東京の「夢布人(ゆめふじん)」という手芸グループが中心になり、「SLA手作り工房」その他協力者により縫製しました。
>>夢布人の武者幟半纏のこと
夢布人の武者幟半纏
「夢布人(ゆめふじん)」は中野区で活動している手芸グループです。
メンバーは約20人。
手仕事が好きな人が集まってお互い情報交換をしながら、月一回、区民支援センターで活動を続けています。
テーマは自由ですが、会としては「吊るし雛」の制作を現在の年間テーマにしています。
今回、北浜わかめの再建を何らかの形でご支援しようと思い、
当初は大漁旗を使った半纏を作ろうと企画しましたが、
大漁旗自体が流出して断念せざるを得ない状況になっていたところ、
佐賀県の久保旗店さんから武者幟をご提供頂き、現在の武者幟半纏を作ることが出来ました。
武者幟から作った半纏
襟の正面には右に「岩手県大船渡市」左に「北浜わかめ 虹の会」と染めました。背中には勇壮な武者・馬が描かれ、着ると武者のパワーがもらえる気がします。
武者幟
武者幟は5月のお節句にこいのぼりと共に屋外に立てられます。
男の子が生まれると親類縁者から健康と心願成就を願って、家紋と赤ちゃんの名前を染めて送られます。
右の写真は、アメリカ人が震災復興を願って応援ポーズをとっているところです。
半纏の製作
襟の文字は勘亭流。胡粉による型染め。
右の写真は、型置きの作業中。
武者幟からショッピングバックも
夢布人のメインの活動は、武者幟からショッピングバックを作り、その売上金を復興支援に充てています。
大きいバックは5000円、小さいほうが3500円。その他ポーチなども制作中。
問い合わせ先
磯崎潤子
E-Mail yoshiiso@mbf.ocn.ne.jp
TEL&fax 03-3339-7880
Mobile 080-3274-0044
junko2889@i.softbank.jp
毎日新聞にて紹介していただきました
岩手日報にて紹介していただきました
河北新報にて紹介していただきました
河北新報にて紹介していただきました
海のテロワール・北浜
北浜の海をこう表現したのは、福岡県八女市で、私たちのわかめを販売してくれている朝日屋酒店の店主・高橋康太郎さんです。
朝日屋酒店は、店主の高橋さん夫妻が厳選した食品も扱っています。
そのひとつが、末崎わかめです。
東日本大震災の直後には、遠く離れた九州の地にありながら、北浜わかめ組合のために店内チラシを貼って募金箱を置き、義援金を集めてくれました。
テロワールとは、土壌や地形、気候などぶどうを育む環境を総称するフランス語だそうです。
ワインにも詳しい高橋さんは、フランスのワインづくりにたとえて、末崎わかめの育つ北浜の海をこう表現したのでした。
私たちがわかめを育てている北浜は大船渡湾の外側にあります。
ここには大船渡湾に注ぐ盛川と、天然林におおわれた末崎半島から澄んだ水が流れ込みます。
そこで、強すぎず弱すぎもしない潮流に揺られながら、肉厚で歯ごたえのある末崎わかめが成長します。
極上のワインを育むぶどう畑のテロワールのように、北浜は末崎わかめを育む「海のテロワール」なのです。
わかめサラダ
準備中です。
養殖わかめ発祥の地
店頭に並ぶわかめのほとんどは、私たちのような漁業者が育てた「養殖わかめ」です。
その養殖わかめの発祥の地が、私たちのふるさと末崎町です。
この地の先人はわかめの生態を研究し、まだ誰も成し遂げていなかった養殖に挑み、生産手法を完成させたのです。
1953(昭和28)年、旧末崎漁協(現在の大船渡市漁協末崎支所)の小松藤蔵は、漁業者の所得向上をめざし、わかめの養殖に挑戦しました。
当時は現在のように専門業者が生産する漁具もありません。
何もかもが手探りで、必要な道具も自作しました。
小松は稲藁で編んだ縄にコールタールを塗って養殖縄にするなど、さまざまな手法を試みたといわれています。
そして、試行錯誤の末、とうとう1957(昭和32)年にわかめの養殖技術を完成させました。
末崎町で生まれたわかめ養殖の技術は三陸全体に広がり、1966(昭和41)年には養殖わかめの生産量が天然わかめを上回ります。
さらに、1965(昭和40)年には、同じく末崎町の佐藤馨一が、収穫したわかめを湯通しし、塩蔵する新しい保存技術を考案しました。
それまでわかめの保存方法といえば乾燥しかありませんでした。
しかし、湯通しすることでわかめを鮮やかな緑色に変え、塩抜きするだけで簡単に食べられる塩蔵技術が開発されたのです。
いまでは三陸沿岸に普及したわかめの養殖技術と塩蔵技術はともに、この末崎町で生まれました。
そんな歴史が末崎わかめのブランド化につながっているだけでなく、私たち生産者につねに誇りとともに自戒の念を呼び起こし、輝かしい歴史に恥じないわかめを生産しようとする意欲を生み出しているのです。
わかめの一生
わかめは1年生の海藻です。
陸上の植物と同じように、胞子から成葉までの一生を1年のサイクルでくりかえします。
三陸地方に遅い春が訪れ、北浜の海水温が上昇し始めると、わかめの根元にある芽かぶ(成実葉)から胞子が飛び出し、海中に飛散します。
次の世代の命を生み出したわかめは次第に枯れ始め、その葉はちぎれて海に漂い、餌となってさまざまな魚の命をも養います。
暑さに弱いわかめの胞子は岩場などに付着したまま夏に入ると休眠し、海水温の下がる秋を待ちます。
やがて秋を迎え、海水温が下がり始めると、胞子は雄と雌の配偶体となって受精します。
この受精卵からわかめが発芽します。
冬を迎えると、わかめはさらに成長を続けます。
そして2月ごろ、より大きなわかめに成長するよう、私たち生産者は養殖縄にびっしりと生えた若いわかめを間引きします。
これを「早採りわかめ」といいます。
まだ細いうえにやわらかいこの時期の若いわかめは、カットわかめとして製品化されます。
近年は、それだけでなく、しゃぶしゃぶ用など生のまま売り出すようにもなってきました。
とうとうわかめは収穫期を迎えるのです。
この時期がわかめの旬。北浜にはわかめの収穫に向かう漁船が行き来し、収穫したわかめはその日のうちに湯通し、塩蔵するので、浜もにぎわいます。
塩蔵することでわかめの風味が保たれ、1年を通して食卓に乗せることができるのです。